愛媛の旅 6
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愛媛の旅。
外泊集落を後にして、大洲にある臥龍山荘へ。
愛媛県で建築を見るとなれば、日土小学校と並んで出てくる名建築。
かつて建築家の黒川紀章が桂離宮に匹敵する美しさと評した数寄屋建築の傑作である。
明治時代に大洲出身の貿易商・河内寅次郎が構想10年、大工棟梁の中野虎雄とともに三千坪の土地に4年近くの歳月を掛けてつくりあげた余生を過ごすための別荘。
建築を構想するにあたり、歴史の中で磨き上げられた作法やセオリーのような、まず初めに考えられるつくり方がある。屋根のかけ方、壁の仕上げ方、床の張り方、石の積み方、木造の寸法体系などといったセオリーを用いて建築はつくられている。そのセオリーに対しひとつひとつ丁寧に向き合い、ある種、疑問や可能性を再考することで生まれた独自の考え方によって、茶室をはじめとした数寄屋建築が生まれている。建築史家、藤森照信氏によると数寄屋建築は時代性こそあれ、その独自すぎる存在から建築史という枠組みの中にカテゴライズされにくい自由なものとして存在しているという。臥龍山荘もまた数寄屋建築の傑作と言われる所以はそのセオリーを超えた自由な発想と物語性が随所に感じられるところにある。雁行するかやぶき屋根、石垣を突き抜ける自然木、丸窓を月に見立て、雲を違い棚に見立て、利休鼠色の戸にはコウモリ型引手を設えることで夜の部屋をつくり出す。近くを流れる肘川からの景色を眺める茶室ー不老庵は崖にせり出した掛け造りで、捨て柱と呼ばれる生きたままの自然木(成長の遅い槇の木)をそのまま軒を支える柱に利用するなど。見る場所、ひとひとつに物語があり、工夫があり、セオリーを超えた自由さが全体に染みわたっている。当初、膨大な費用をかけて一人の人間のためにつくられたという内向的な側面もあるが、現代までていねいに維持管理され、誰でもみることができるように開かれたものとして生き続けることができた意義は大きい。ものづくりの開放された自由な発想、ひとつひとつに物語を紡ぎ出す意志と工夫、自然に敬意をはらう姿勢をみた。